吉祥天、阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、そして間もなく発売される四天王像と、イスム製品のモデル像となった貴重な尊像を多数所蔵する、京都府は木津川市の浄瑠璃寺を訪ねました。 本堂を含む4つの国宝と非常に多くの重要文化財、さらには特別名勝に指定される美しい庭園を、時間の許すかぎり堪能しました。
京都府の南側境界をなぞるように流れる木津川。そのほとりにあるJR大和路線加茂駅から、当尾(とうの)石仏めぐりとして知られる山道中心のルートを使って、少し遠回りしながら浄瑠璃寺に向かいます。 この辺りは一見普通の山林に見えますが、古くは千年以上前の石仏が散在する歴史遺産の宝庫です。
今回は岩船寺(がんせんじ) のバス停から徒歩でということで、正直たどり着けるか不安でしたが、道中は輝く草木がすがすがしく、いつの間にか楽しいハイキングとなってしまいました。
こうした手付かずの登山道のようなこのルートを歩いていると、浄瑠璃寺が創立された時代にタイムスリップしたような気分になり、あれこれ思いを馳せることで疲れを感じませんでした。
石仏めぐりの山道のところどころにひっそりと佇む石仏は、かつて仏教の俗化に背を向け、隠棲した求道僧らによって設けられた聖なる魂の痕跡です。 古くは鎌倉時代に遡る貴重な歴史遺産であるとともに、彼らの純粋な思いの結晶である石仏。それらを道端に見つける度に、心が引き締まります。
しんごんりっしゅう おだわらさん じょうるりじ
真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺
京都府と奈良県の県境に位置する浄瑠璃寺は、永承2(1047)年、義明上人によって創建されました。 美しい響きを持つ寺名は、創建時の本尊 薬師如来の住む東方浄瑠璃浄土に由来します。
本堂
平安時代末期に末法思想が広がると、貴族の間に西方極楽浄土への往生を願う浄土信仰が流行しました。その経典「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」に説かれる「九品往生(くぼんおうじょう)」の教えに基づき、京都を中心に九体の阿弥陀如来像を祀り浄土世界を具現化する「九体阿弥陀堂」が数多く建立され、浄瑠璃寺も新たな本尊として九体阿弥陀を迎えました。その当時の姿を今に伝えるのは浄瑠璃寺の本堂のみで「九体寺」と称され現存する唯一の寺院となっています。
本堂の仏像
国宝 阿弥陀如来坐像
写真は浄瑠璃寺の本尊、国宝 木造阿弥陀如来坐像の中尊です。本堂(九体阿弥陀堂)内に並ぶ9体の阿弥陀像のうち像高224.2cmと一番大きく、右手を上げ左手を下げる来迎印を結びます。
造像時期については諸説あり、新しい本堂が建立された嘉承2(1107)年、本堂が現在地に移築された保元2(1157)年などといわれ、8体の脇仏とは制作年代や仏師が異なります。
国宝 四天王立像
4体のうち持国天と増長天の2体のみが本堂に安置され、残りの2体は東京と京都の国立博物館にそれぞれ寄託されています。平安時代後期の造像とみられますが、多聞天のみ造像方法や作風が異なるため、造像時期がより古い年代に遡るとも言われます。力強い迫力と大きな動きを感じさせる4体は、この時代に造られた像の中でも特に秀でた造型としてその名を馳せます。
重文 吉祥天立像
建暦2(1212)年の造像と見られる浄瑠璃寺の重要文化財 吉祥天立像は、秘仏として厨子に入れられ保護されてきました。現在でも限られた期間のみの公開(開帳)となっています。
切れ長の眼と美しい弧を描く墨描きの眉、彫りを極限まで浅く抑えた理智的な表情が、絵画的な美しさを感じさせます。
左手には願いを叶える如意宝珠を掲げ、右手は願いを聞く与願印を作り、ふくよかな体躯にまとう唐代貴婦人の衣裳は隅々まで繧繝彩色に彩られます。豪奢を極めるその姿はまさに、意のままに願いを叶える天女を体現しています。
国宝 三重塔
重文 薬師如来坐像
浄瑠璃寺の国宝 三重塔の本尊、重文「木造 薬師如来坐像」。永承2(1047)年の創建当時の本尊で、現在は年に数度の開帳日を除き秘仏とされます。
面長の輪郭と切れ長の彫眼とが相まった威厳ある表情でありながら、苦しみを取り除く薬師如来らしいおだやかさも感じさせます。彩色はほぼ補彩ながら、金箔と朱の対比が強い印象を与え、確かな存在感を放ちます。
薬師如来は、正式な名を薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といいます。「東方薬師瑠璃光浄土」という清浄な世界からこの世へむけて、私たちを生命として送り出す役割を担うことから、「遣送(けんそう)の如来」とも呼ばれます。
製品情報
浄瑠璃寺へのアクセス
公共交通機関
・JR大和路線加茂駅下車 岩船寺・浄瑠璃寺方面「加茂山の家」行きバス乗車~「浄瑠璃寺」バス停下車
自家用車
・京都方面から
京奈和道路 木津I.C.~ 奈良加茂線 ~ 高田東鳴川線~ 浄瑠璃寺(木津I.C.から約40分)